2020/04/22

コロナ禍に関する対応について


昨日、新型コロナウイルスの蔓延抑制のため熊本県より休業要請が為されました。現在のところ2020年4月22日より2020年5月6日迄の要請があり、同期間中休業と致します。今後どの様な動きとなるか不透明な部分がございますが宜しくご理解の程お願い致します。



2020.4.18  2:17
下通り北側入口付近より南側に望む。下通り
 オールクリアをこの二十年で初めて目にした。
時期が時期ではあるけれど純粋に驚く。





2020/04/10

¿Por qué es Macondo?


 マコンドとは、かの著名な南米の巨人ホセ・アルカディオ・ブエンディーアがまだ若者であった頃、仲間と海を求めて同道した道行きの途上に拓いた村の名前である。この場所の表題がマコンドである理由はほんの少しばかり説明を要する。

 私が自らのバーを開くにあたり、できれば百年続くお店ができればと考えていた。以前勤めていたお店は私の在籍した最後の年、2009年の時点で既に30年の営業を続けてきた老舗バーであった。2001年から、熊本にあるそのお店の責任者となり、引続いて日々営業を重ねていたがその中で唯一不満足な点があった。
 そのお店は着任したその年から10年を遡ると責任者は、私で既に6人目であった。
そこでの何が不満かと言えば、永らくの常連のお客がある日、一見のお客となってしまう事である。そのある日、カウンターに立つバーテンダーが見たこともない奴に入れ替わっているわけだ。それはどうにも具合が悪い、20年、 30年と通ったお店だ。30年連れ添った奥方から新しい旦那を紹介されるようなものだ。どうも、知らぬ間に旦那が入れ替わっていたらしい。貴方、新しい旦那さんのなんとかさんよ、よろしくね。こちらも察して、いやこれはどうも、まえの旦那のなんとかです、そんなお話とは露知らずこれは失礼を?と。
まさかそんな間抜けな話があったものではない。
その様な事情から、私は当時29歳であったので、あと40年続けて60年。その時点で誰か託せる人間を育てていれば百年も不可能ではないよな、と考えた。しかしそこでの希望は霧散した。

 バーテンダーが、自分自身のお店を開こうとする時、延々と判断を下し続ける日々が待ち受けている。まずは場所。価格の設定、どのようなサービスを提供するのか、店舗の広さ、席数、酒の品揃えやグラスの選定、食器類。客層を想像し売上を予測、損益分岐点をできる限り明確にする。借入の返済スケジュールを組み、絵に描いた餅でしかない物を、取りあげて感触を確かめられるくらいにリアルに描き込んで行く。オープンの案内は誰にして、誰に連絡を控えておくのか(果たして本当に誰かそこへやって来るのであろうか?)。
つまみを突き刺すフォークのひとつから、妥当と思える金額の中で、お店の意図に沿うような気にいった形を数多ある製品の中から選ばなければならない。開業における作業に苦慮する場面が多々訪れるのは至極当然であるが、とは言えこれらの仔細にわたっての選択は少なからず快楽も伴う。
 しかしながら、取り敢えずは種々挙げてはみたその内容も、時間とお金をかけるなら事後の変更は、これはまだ充分に可能だ。しかし、何と言っても一番に悩ましいのは、誰が何と言えど店の名前である。こればかりは先ず変えるべきでない。殆ど、どの様な場合を考えても名前を変える事に関してはデメリットしか感じられない。

 マコンドという村の名は、Bar Mano バーマーノという名でお店を10年前に開業した私の苦悩の足跡である。これは要するに店名の候補の一つであった。そんな風なのでここに女々しくもマコンドと言う表題を掲げている訳だ。ちなみに、他候補はその後、Meursaultムルソー、Alger アルジェ、Mano マーノと変遷といいますか変節を遂げるのであるが、その話はまた別の機会に。

 それでは何故、それはマコンドであったのか?
2001年に上梓された野地秩嘉の『サービスの達人たち』。この本は、色濃い人物達の色濃いエピソードが存分に塗し掛けてあり、随分と愉快な内容で大変おすすめであるのだが、その中に伝説のゲイバー、接客の真髄という項がある。
「やなぎ」という日本最初期の本格的ゲイバーを開いた島田正雄という方の話であるが、その中の挿話に「平成六年の八月、六本木に移った「青江」も、四十五日間ひとりも客が来なかったため、ついに閉店。」という一文がある。この本を読んだのは、もう十五、六年も前の話だが、これは我々の仕事の本質的なところが見事なほど簡潔に実態されており、その時分、随分と身につまされたものだ。

 簡単に想像がつく話であるから、是非ご想像いただければと思う。お店と言うのは、まさかいきなりに四十五日間お客が来なくなる訳ではないだろう。最初の予兆は、そう、月に何度か来客のない営業日が出始めたところから始まる筈だ。その次に、それが週の単位となる。そこから、来客のある日とない日の数が逆転する。あとは特定の誰かが来なくなり、一人また一人とお客が減ってゆく。それがいつしか、来客数が週に数人、それから月に数人という進み方をした筈だ。
そしてある日、その客が最後の来客者であり、その夜が最後の一日であった、と言う事は全てが終わったのちに発見されるのであるが、そのある夜の客を最後に、全くそこに誰も訪れなくなる。そしてその事実に気がつくまでに四十五日間かかったという事だ。
 私が、バーテンダーとして仕事をしている時ふと考える事がある。
開店前にしっかりと準備を万端整えて、いざ開店時間となり営業が始まる。お客様が多く混み合って忙しくカクテルを作る日もあれば、閑散とした日はそれぞれのお客様と他愛のない話や、熱のこもった話を十分すぎる程できる時間があり話し込む事もある。しかしバーに毎日毎時間お客様が必ずいるという訳ではない(特に我が店では)。
全く誰も訪れない日があるものでもないのだが、それでもそのある一日の最初の来客が午前0時を過ぎてからだとか、オープン後の17時台にお一人いらっしゃったきり、あとは全くの梨の礫であったりだとか。その様な経験は幾度もある。そういう時に私は、ついある小説の冒頭の引用を思い出してしまう。


太陽はなぜ今も輝きつづけるのか
鳥たちはなぜ唄いつづけるのか
彼らは知らないのだろうか
世界がもう終わってしまったことを



しかし世界は終わってはいないし、お店の外では相変わらず世の中は良し悪しなく、時間は圧倒的に引き続いて進んでいるし、太陽はもう50億年もそこに浮かんでいる。しかしそれでも、全てを十分に承知しながらも、ひとりで黙って6時間くらい無音(音はある。スピーカーから流れるジャズと冷蔵庫の作動音。しかしバーテンダーにとってこれは丘の上を吹き渡る風の音、小川のせせらぎ)の中で本でも読んでいると本当にそんな気がしてくるものだ。
本から顔を上げたら、私の知っていた時間が様変わりをして、以前いた世界がもう終わってしまっていた、とそんな感じ。しかし、それはおまえの世界が終わっているだけかも知れない。それでも、ほんの6時間でさえ人はこんな風に感じてしまう。それがまさか四十五日もあれば誰にでも理解できる筈だ。
その場所や、人が、誰からも思い出されなくなってしまえば、それは有りこそはすれど、無きと同義だと言う事を。

 百年の永きに渡り存在したその場所、蜃気楼の町も、先ずはベゴニアのさざめき、幻滅の吐息にみちた生暖かいかすかな風、そして怒りくるう暴風のうちに、土埃と瓦礫になぎ倒され人間の記憶から消えてしまう。庭の栗の木に縛りつけになり、しゅろの小屋の下いつまでも庭に漂い続けたホセ・アルカディオ・ブエンディーアも、メルキアデスが羊皮紙に書き記した百年の出来事を、今まさに読み終えつつあるアウレリャーノ・バビロニアも同様に。

コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』は、ホセ・アルカディオ・ブエンディーアをマコンドの始祖とした7代に亘る年代記だ。この物語の百年は、マコンドで始まりマコンドで全ての終わりを迎える。小説の最期、アウレリャーノが目にした光景により、アウレリャーノは百年の永きに亘ってそこで何が起こったのか全てを理解する。メルキアデスと言う名のジプシーが遺した羊皮紙に嵌め込まれた題辞の光景そのものを、アウレリャーノはその最期目にする。

〈この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる〉

怒りくるう暴風の中、土埃と瓦礫と共にその場所が消えつつある最中、アウレリャーノは此処から全てが消えしまう事を予感し、その町マコンドが消えつつある事を確信しつつも、羊皮紙に書き付けられた一族の歴史を読み進み、自らの死の頁を読み進む中、小説を終える。

この小説は最期この様な文章で閉じる。
「そこに記されていることの一切は、過去と未来を問わず、永遠に反復の可能性はないことが予想されたからだった。」

 この小説は私が20歳の頃に買い求めそのまま死蔵。とうとう読み終えたのは35歳の頃の事だ。バーと言う場所はマコンドのようであり、バーテンダーは庭にいつまでも漂うホセ・アルカディオ・ブエンディーアのようだ。そこが、その場所から消えてしまえば、そこに過去何があったかその事実も次第に忘れられ、偶さかに誰かがその場所の記憶を僅かひとかけら遺していたとしても、その誰かもいつかは消えて無くなってしまい、その全てを閉じる。

この場所は、かつてそのような場所があったと、消えつつあり、その場所が消えてしまった後、誰かが、メルキアデスの遺した羊皮紙をアウレリャーノが目にするように残す場所である。だからバーはマコンドであり、ここにあるバーテンダーはホセ・アルカディア・ブエンディーアであり、書き遺すメルキアデスであり読み終えつつあるアウレリャーノである。








© MACONDO
Maira Gall